関が原の戦いで西軍についたことにより、毛利家は減封され、居城を日本海側の萩にと指定されました。この急激な石高の減少により、多くの藩士を抱える長州藩は財政困難となります。こうした苦しみから、長州藩は根強い反幕の精神が芽生えることとなりました。
この困難を打開策として、藩主は人材の育成と産業の振興に力を入れます。
幕末になり、孝明天皇の死が攘夷の追い風となり、長州は倒幕派として薩摩と手を結び台頭していくことになります。
そして、この地にあった長州藩の屋敷は、「禁門の変」の際に焼失してしまいます。
ちなみに、近くには桂小五郎の銅像も立っています。