本能寺と来ればどうしても「敵は本能寺にあり」の言葉で有名な本能寺の変を思い出します。しかし明智光秀による織田信長襲撃事件が起きたのは、現在の本能寺ではなく、もっと南西の地にあったお寺で、当初は「本応寺」と呼ばれていました。
8代住職日承の時代に勢力は大きく拡大し、畿内・瀬戸内は元より遠く種子島でも布教活動を行い、末寺も開いていました。その関係で鉄砲や火薬の入手に絡み、戦国大名とのつながりを深めており、信長も上洛時には本能寺へ泊ることが多かったのです。
現在の地へは天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の命で移転させられました。現在も京都市役所にも近く、京都のメインストリートの河原町通りと寺町通に挟まれた立地で、街中のお寺としては充分広いのですが、移転当時はもっと広大な敷地を誇っていました。
法華宗本門流の大本山であり、境内には高俊院や龍雲院など7院の塔頭を抱え、寺宝を納めた博物館として、本能寺大寶殿宝物館も併設されています。経営者としての顔も持ち、本能寺文化会館やホテル本能寺なども所持しています。