福知山城は、天正7(1579)年、丹波を平定した明智光秀が城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したようです。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、石垣と銅門番所だけが残っていました。昭和61年、市民の瓦1枚運動などの熱意によって三層四階の天守閣が復元されました。内部は郷土資料館として公開し、城に関する資料や福知山地方の歴史・文化財を紹介。また、公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館があり、望楼からの城下の眺めは抜群です。