鹿島藩2万石の鹿島城は、文化4年(1807)に北鹿島の常広城から移転したもので、明治7年(1874)の佐賀戦争(佐賀の乱)の混乱によって消失してしまい、現存するものは赤門と大手門のみとなっています。
現存する大手門と赤門は佐賀県重要文化財に指定されており、本丸南には武家屋敷も残っている。
赤門の建立は鹿島城建立1年後の文化5年(1808)で、古くから丹塗りであることから「赤門」として市民に親しまれています。
現在は県立鹿島高等学校の校門として使用され、祐徳稲荷神社と並ぶ鹿島のシンボルとされています。