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露天神社(お初天神)

露天神社(お初天神)
地図

お初天神の名で知られる、大阪梅田にある創建以来一千三百年の歴史を持つ古社

訪問者

12
大阪梅田駅のすぐ近く、お初天神商店街の突き当たりに露天神社があります。
創建は西暦700年頃とされ、「お初天神」の名前でも知られています。
元禄16年(1703年)に露天神社の境内で起こった心中事件を題材に、
近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書きました。
この作品は当時の人々の間で大評判となり、露店神社には多くの人が訪れたと言われています。
そして、「曽根崎心中」のヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになりました。

この辺りは大阪湾に浮かぶ小島の1つで、
「住吉須牟地曽根ノ神」を祀っていたところから「曽根洲」と呼ばれていました。
後に、南北朝時代には地続きとなったため、「曽根崎」となり今の地名「曽根崎」の由来となりました。

  • 開運稲荷社
  • 水天宮 金刀比羅宮
  • 難波神明社
  • 名前の由来
  • 歴史
  • 神牛舎

開運稲荷社

【御祭神】
 玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神
【御神徳】
 商売繁盛、五穀豊穣、皮膚病治癒

明治42年「北の大火」によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有に帰した。
翌明治43年に当社境内地に四社を合祀し御奉斎申し上げた。
古くは皮膚病の治癒を願って「鯰」の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混みあうほどだったと伝えられている。
現社殿は一部修復工事を施したものの往時のままで、正面左右の扉を開放すると社殿内を一巡することができ、当時のお百度詣りの様子をうかがい知ることができる。
なお、明治42年の「北の大火」で焼け残った御神木でつくられた神號額が、その旨の裏書とともに伝わっている。

水天宮 金刀比羅宮

【御祭神】
 天乃御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神、他二柱
【御神徳】
 安産、児童守護、交通安全、水関係職種の守護

当 水天宮はもともと寛政9年(1797年)6月に大阪中之島・久留米藩蔵屋敷内に祀られた社である。
明治維新に際し、蔵屋敷は朝廷に返上、水天宮の御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀された。しかし、丸亀藩蔵屋敷も返上することになったため、高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷され、その後、堂島中二丁目に遷座された。さらに明治42年の「北の大火」で社殿が被災したため当地に遷され、露 天神社の境内社として斎祀されるようになった。
明治天皇御誕生の際、孝明天皇が御安産を御祈誓、無事御降誕の後、当水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納されたと伝えられている。
また、金刀比羅宮は江戸時代、中之島にあった高松藩、丸亀藩両蔵屋敷の中にそれぞれ祀られ、霊験あらたかと毎月縁日には参詣人が群れをなしたと伝えられている。
当時大阪では毎月十日が金刀比羅巡りの日とされ、土佐堀川常安橋北詰西の高松蔵の金刀比羅様と上町空堀の遥拝所、千日前法善寺の金刀比羅様は特に賑わったという。
明治期以降の変遷は「水天宮」と同じ。

難波神明社

「夕日の神明」とも称されたこの社は、平安初期弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融公が今の西天満伊勢町あたりの孤島に祀られたのが始めといわれている。往時はこの地を「大神宮の北の洲」、または「神明の鼻」と称し、一帯が境内地であった。伊勢町、木幡町の名はここを起源としているといわれている。
文治年間(1185~1189)、源義経が福島で梶原景時と「逆櫓の論」をした時、当社に寄付物を奉納し願書を収めたと伝えられている。
後醍醐天皇の御代には勅願書となり度々行幸の栄を受け、後代の江戸期には、大阪城代および両町奉行の崇敬が殊に厚く、境内も広大であった。
社殿が東向きの春日出の「朝日の神明社」、南向きの鶴町の「日中の神明社」、西向きだった当社「夕日の神明社」をあわせて『大阪三神明』と称した。
また、東京芝神明宮、京都松原神明宮、同東山神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮と当神明宮をもって『日本七神明』ともいわれた。
しかし、天保5年(1834年)7月11日の火災によって社殿が焼失し次第に社勢も衰え、明治42年の「北の大火」でも被災、翌年当社に合祀された。当社現御祭神のうち、天照皇大神、豊受姫大神はこの神である。
現在は、当社東方約500メートルに位置する旧境内地の一隅に碑を設け、当社大祭に先立ち7月19日に例祭を斎行している。
また、往時は毎年6月1日に冬季から貯蔵しておいた天然の氷を食べて、夏中はやり病にかからないよう祈願をしていた。この行事は一般に「氷の朔日」と呼ばれ、近松の『心中刃氷朔日』の題名にもとり入れられている。

「露天神社」の名前の由来

菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。(その他諸説有り)

昌泰4年(901年)2月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。この故事にちなみ、露 天神社と称すると伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説)
なお管公は、元和8年(1622年)3月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。
『摂陽群談』では、入梅の時期に祭礼をすることから「梅雨天神」と称するという。また、他説では梅雨時期になると清水が湧き溢れる井戸
浪速七名井「神泉 露の井戸」

真水の少ない大阪で、周辺地域のみならず社地横を通る旧池田街道を行き通う人々にとっても、貴重な井戸であった。
梅雨時期には清水を地上に湧き出したと伝えられ、当社社名の起こりともいわれる。
境内に現存するが、水量は少ない。

「露天神社」の歴史

在の社殿は、旧社殿が昭和20年6月に太平洋戦争で焼失したため、昭和32年9月20日に造営竣工したものである。
昭和52年10月20日には管公御神忌1075年祭並びに、社殿復興20周年記念事業として、境内各所の修復、透塀・玉垣の新設を、平成5年には社務所・参集殿・正門・鳥居などを造営した。
創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」旧跡の一社である。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。

社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」(注1)旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。

(注1)古代難波において、王権のもとに執り行われた最も古い祭祀とされ、奈良時代には即位儀礼の一環として、即位の翌年に、天皇自ら難波の海辺に行幸し斎行されていたと考えられている。

撫でると病気が治る「神牛舎」

「神牛さん」「撫で牛さん」と呼ばれ、身体の病む処と神牛さんのそれを交互に撫で摩るという信仰が、古来より続いている。
神牛さんに身代わりになっていただく、または神牛さんの霊力を持って病を治癒していただこうというものである。
昨今は、学力の向上を願う学生や受験生も多数参詣する。

露天神社(お初天神)内の見どころ露天神社(お初天神)内の見どころ

露天神社(お初天神)に行ったらぜひ見ておきたい、露天神社(お初天神)内にあるお勧めのスポットを紹介しています。

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露天神社(お初天神)のイベント情報露天神社(お初天神)のイベント情報

露天神社(お初天神)で開催されるイベントの情報です。
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