南浦文之は、1555年に日向の串間に生まれ、6歳の時に真言宗延命寺の天沢和尚に師事し、13歳で串間の禅宗龍源寺に入り、桂庵禅師の孫弟子に当たる一翁に師事しました。15歳の時京都の臨済宗東福寺に上がり、10年の修行の後、帰郷して龍源寺などの住職を務めその学識は島津家16代当主島津義久に認められ、国分の臨済宗正興寺と加治木の安国寺の住職となりました。
以後、義久、義弘、家久の3代に仕え、儒学を講じる一方、外交や文教の顧問として重要な役割を担った。朱子学にも秀で、『南浦文集』などを著したほか、『四書集注』など漢籍に訓点をほどこし、1620年(元和6)、66歳で亡くなりました。
加治木の安国寺に葬られ日本儒学の発展に貢献した人物の墓として、1936年(昭和11)に国の史跡に指定されました。
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