北海道水田発祥之地は北斗の町から北側の道道96号線から少し入った場所に北海道水田発祥之地の石碑があります。蝦夷に和人が入植してからも気候の問題で北海道では米が採れず、松前は石高ゼロの大名でした。
北海道はニシンやサケなどの漁業が盛んだったので食料には困りませんでしたが本土から移住した人々の米が食べたいという想いは強くありました。
北海道への人々の定着は米にあると考え、人々は北海道でもまだ気候に恵まれた道南に稲作を試み、1692年に農民作右衛門が押上のこの地を拓し0.15ヘクタールを開田し十俵を収穫しました。しかしこの米作も長くは続かず、その後も北海道の稲作は失敗と成功を繰り返すこととなりました。
しかし1850年にようやく大野村の高田松五郎・万次郎親子が米の収穫に成功すると近隣の村々にも広がり、1854年以降、道南の米作りはようやく安定することとなりました。
1873年になって道南で栽培されていた「赤毛」と「白髭」を元に寒冷地向けの品種「石狩赤毛」を開発し、道央でも稲作が可能となり、さらに「坊主」や「黒毛」などの耐寒品種の開発で道東や道北でも稲作が可能となりました。
この寒冷な蝦夷地で稲作を可能とした先人の功績を記して1949年に北海道水田発祥之地の石碑が建てられました。