木古内の坊は木古内の町の東側の海側に小さな公園があります。この公園に建つ石像が木古内の坊です。この木古内の坊とは1850年代後半から50年ほどこの木古内に実在した川又友吉という名の目の不自由な男の通称です。
彼は2人兄弟の長男として生まれましたが、父親と友吉は目が見えず、一家を支えていた母親も友吉が幼いうちに過労で倒れて亡くなってしまいました。当時の木古内はニシン漁で賑わっていたこともあり、友吉の一家は村の人たちがら食べ物を恵んでもらって生活を続けていましたが、それでは食べ盛りの食欲に追いつかず、父親は自分の食事も子供達に分け与える始末でした。
大きくなった友吉は父親と弟の食料を手に入れるため、遠くの町まで物乞いに出かけるようになりました。19歳になった友吉が函館まで物乞いに出かけた時、偶然出会った松田巡査から物乞いではなく付け木を売るようにアドバイスされ、友吉は木古内に戻って付け木を売るようになります。どこの家庭でも必要としていた事もあって友吉の売る付け木はよく売れました。しかも彼の身の上を聞いた人々は付け木を高値で買ってくれたり、食事をご馳走してくれたり泊めてくれたりもしました。
彼は親孝行者で恵んでもらった食べ物はその場では食べず、必ず持ち帰ってまず父親に食べさせました。彼は一家の大黒柱として雨の日も風の日も雪の夜もただ黙々と付け木を背負って売り歩きました。しかし付け木は一度購入すると簡単にはなくならない事もあって、友吉は次々と新しい土地に売ってまわらなければなりませんでした。
またこの地には地元に言い伝えられた坊にちなんで「孝行餅」という土産物もあります。父親に少しでもいいものを食べてもらおうと遠くまで付け木を売り歩いた木古内の坊の像を見ながら彼の生き様に触れてみるのもよいでしょう。