伊東祐享は神戸の海軍操練所で勝海舟に学んだ後、海軍に入り、多くの軍艦の艦長として活躍しました。薩摩の海軍と言われていました。伊東祐享は若いころ、生麦事件の発生時は島津久光の駕籠の側におり、薩英戦争時は祇園之洲砲台を守り、西瓜売り決死隊に参加しました。日露戦争後元帥となりました。薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身です。日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に任じられました。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしました。伊東祐亨元帥誕生地碑は現在、清水町の清水小学校内に建てられています。